京都での修行の思い出

 以下の文章は、数年前の今頃にFBに書いたネタを編集して再掲したものです。

 1993年の今頃の話。修論審査と博士課程の試験にパスし,ほっとしていた時に,ドイツ留学の話が舞い込み,浮足立っていたころ,たまたま恩師と飲む機会があった。

 そのとき,恩師から,この春休み中に,京都駅の南にある東九条という地域の「希望の家」というところに修行に行けと言われた。ドイツ留学よりはるかに大事なものがあるから,それを学んで来いということだった。

 そこまで言われて,いやだという訳にもいかず,博士課程進学前のある土曜日に夜行のフェリーで大阪へ(新門司港に行くのに,どういう訳か,篠栗線・筑豊線経由だったことも覚えている)。日曜の朝,大阪南港に着いて,当時銀行員だった大阪在住の友人と会って愚痴をたれた後,京都東九条の「希望の家」に電話した。

 どうして「希望の家」の電話番号を調べたのかは思い出せないが,ともかく電話に出られた職員の方に,恩師からそちらで修業せよと命じられたので,物置でもどこでもいいので,泊めてもらい,そちらでのお仕事をお手伝いさせていただけないかと懇願した。すると,ほんとに物置用の畳の部屋しかありませんが,それでもいいですかという話だったので,二つ返事で「希望の家」に向かった。

 それまで,京都駅の南には行ったことがなかった。同志社大学で日本刑法学会があった2年後の話なので,京都の北には2~3度行ってはいたが…。

 「希望の家」というのは,当時は,カトリックの教会が母体の,児童館でもあり,地域の福祉センターみたいなところだった。その神父さんや職員の方に事情を話させてもらい,さっそく,月曜日の朝から,お手伝いを始めた。

 朝は,暖かい食事を,近所の独居のお年寄りのお宅に,これまたお手伝いの大学生とともに運んでまわった。そこで出会ったお年寄りの中には,韓国ないし朝鮮からいらした女性もおられた。大事なことは単に食事を運ぶことではなくて,この女性の話に耳を傾けることだというのを,この大学生から教えてもらった。

 昼は,学校が終わった子ども達が児童館にやってくるので,この子ども達と精一杯遊んだ。子ども達から,「なんでここに来たん?」としつこく聞かれた。「師匠に修行に行け,言われてん」と怪しげな言葉で答えた。

 子ども達はみな貧困と言う問題を抱えているようだった。それは地域そのものの問題でもあった。風呂は銭湯で済ませたが,男風呂に入ったときに,自分以外は皆さん背中に立派な刺青がある方ばかりだった。これも忘れられない思い出。

 夜は,四条あたりのホームレスの皆さんに暖かい食事を配るお手伝い。ホームレス支援の皆さんが運転する軽トラに乗せてもらって,あちら銀行の裏,こちらのビルの裏と,食事を運んだ。

 こうした日々を過ごした時,「希望の家」の職員の方から,ある夜,地域の町づくりの会議があるから来ませんかと誘っていただいた。そこに集まった方々からは,行政にも頼らず,議員にも頼らず,町づくりをやることの重要性を教えていただいた。その方々が話された,議員は,しょせん票が欲しいだけで,本当に地域のことは考えていないのだという言葉が胸に突き刺さった。

 確か,数日間,このような経験を「希望の家」でさせてもらった後,職員の皆さんに見送られて福岡に帰った。ある意味,夢のような数日間だった。その後,ドイツ留学に出発する直前の1993年の夏も「希望の家」を訪ねたが,その後は,なかなか訪ねられないでいる。

 このプチ修行は,今の私の重要な「血と肉」になっている。あの時,色々なことを教えて下さった皆さんにも心から感謝したい。しかし,私は,今,東九条の皆さんに顔向けできる仕事をできているのだろうか…。

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2件のコメント

  1. 若い時代の「修行の大事さ」とそれ以上に「修行から学ぶことの大事さ」がひしひしと伝わってきました。岡田さんの現在を形作っている膨大な基盤の一つが少しは理解できたように思います。今後も現場主義でお互い頑張りましょう。

  2. 大久保先生。コメントありがとうございます。今なら完璧にパワハラです。先日、久しぶりに、この「希望の家」周辺を散策してきました。また、学会等でお目にかかれる日を楽しみにしております。

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